「はははっ。久しぶり! 魚屋の亭主!」
「あら〜、|墨逸《モーイー》じゃない! 相変わらずの美男子ね」
「はははっ。甘露の女将さんも、相変わらず美人さんだよ!」
「やっぱ、お前が死んだなんて嘘だったんだな! おい! これ持ってくか?」
「はははっ。ありがとう! 串屋のおいちゃん! この鳥もくれる?」
他にも、新しい符を書いてくれだの、婿に来て欲しいだの、皆寄ってたかって|墨余穏《モーユーウェン》を囲み出した。
こうして愛嬌のある|墨余穏《モーユーウェン》は、誰かと会う度に次々と声を掛けられ、相変わらずの存在感を醸し出していた。 しばらく歩くと|豪剛《ハオガン》も行きつけだった呉服屋に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》と|尊丸《ズンワン》は中へ入る。 すると、|墨余穏《モーユーウェン》が戻ってきたと噂を聞きつけていた大旦那が、涙を流しながら|墨余穏《モーユーウェン》を思いっきり抱きしめた。「|豪剛《ハオガン》のように、ええ男になったの〜、|墨逸《モーイー》! あんな小さくか弱かったのになぁ。|豪剛《ハオガン》もきっと喜んどるわ〜。ワシも嬉しすぎて、もういつ死んでも構わんな!」
「はははっ。だめだめ。俺の衣、大旦那に死ぬまで仕立ててもらわなきゃいけないから!」
そう言葉を交わし、|墨余穏《モーユーウェン》は|豪剛《ハオガン》がいつも着ていた黒色の衣を、数点選定してもらった。
|墨余穏《モーユーウェン》は黒が映える男だ。肌白さがより衣の黒を引き立てているようにも見える。 玉佩をつける紐だけを白にし、無駄を無くして品よくまとめる様は|豪剛《ハオガン》譲りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》が鏡を見ていると、背後から大旦那が話し始める。 「|豪剛《ハオガン》はよく言っていたよなぁ。『できる奴は派手に着飾ったりしない。余計な物は身につけねーんだ』って。墨逸もこれでええんか?」「うん。これでいいよ」
「なんか刺繍は入れるか? 何でもええぞ。名前や花とかでも」
花と聞いて|墨余穏《モーユーウェン》は、水仙の花を襟の内側に小さく入れて欲しいと頼んだ。大旦那は想い人でもいるのか? と言わんばかりに、目を細めて尋ねる。
「ほぉ。水仙か。何かあるのか?」
「ん? 好きな花だから。ただ、それだけだよ」
好きな花……。
いや、手に取れそうもない花だからこそ、選んだのかもしれない。 |墨余穏《モーユーウェン》はそっと小さく微笑み、出来上がるのを待つことにした。 しばらく待つこと一炷香。 出来上がった衣を持った大旦那が|墨余穏《モーユーウェン》の元へやってくる。「|墨逸《モーイー》、待たせたな。これでええか?」
「うん、とっても綺麗だ。ありがとう」
手仕事とは思えない程、白糸で縫われた水仙の刺繍はとても美しかった。
それから一通りのやり取りを終え、|墨余穏《モーユーウェン》たちは呉服屋を後にする。 下町から尊仙廟へ戻ったのは、酉の刻だった。 いい買い物をしたとご満悦な|墨余穏《モーユーウェン》は、夕餉を済ませ、部屋で呪符を書き連ねていると、尊仙廟の裏手にある|黄山《こうざん》から何やら大きな妖魔の気配を感じた。(何だ? この威圧感は……。ちょっと様子を見に行くか)
|墨余穏《モーユーウェン》は書き連ねた呪符を数枚胸元に忍ばせ、|尊丸《ズンワン》のいる居間へ向かう。
|尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》の様子を察知し、心配そうに「行くのかい?」と尋ねた。「うん。大丈夫。呪符もいっぱい持ったし、ちょうど腕試しをしたかったところだから」
「本当に大丈夫なのかい? 体力もまだそんな……」
「はははっ。大丈夫だって。必ず帰ってくるから」
|墨余穏《モーユーウェン》は、何も心配いらないといった様子で、今日新調した衣の襟元を正す。
「じゃ!」と|尊丸《ズンワン》に言い残し、|墨余穏《モーユーウェン》は意気揚々と黄山へ向かった。|尊丸《ズンワン》が言っていた通り、華陰山の守護が壊されてから、以前とは違う異様な霊気が麓から漂っていた。
さすがの|墨余穏《モーユーウェン》も、違和感を抱けずにはいられない。 |墨余穏《モーユーウェン》は胸元から呪符を取り出し、目印になる木に触れていく。次第に呪符が木の中に入り、来た道を示してくれるようになる。草木を駆き分け、超人の走りをしながら中へと進むと、ここは山の中腹だろうか。 異様な妖気が漂う少し開けた場所が見えてきた。 |墨余穏《モーユーウェン》は木の上に飛び移り、呼吸を整えながら全体を見渡す。 すると、背後から得体の知れない妖魔が|墨余穏《モーユーウェン》に向かって飛びかかってくるではないか!「おいおい、脅かすなよ〜」
|墨余穏《モーユーウェン》は、余裕綽々で妖魔の攻撃を躱わす。
月明かりに照らされた妖魔をよく見ると、一つ目で尻尾が三つに分かれている、|讙《カン》に似た幻獣だった。 眼光を鋭くして、鋭利な牙をこちらに向けている。 修仙界の道士であっても、鍛錬を積んでいる特殊な道士で無ければ、この類いの妖魔は殺せない。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は恐怖心など微塵も感じることなく呪符を胸元から取り出し、尖った木の枝に指滑らせて、滲み出る鮮血を呪符に垂らした。 すると、みるみるうちに白色の呪符が黄色へと変わり、文字も赤へと変貌する。 墨余穏は死ぬ前と同じ霊力があると確信し、この鋭利な牙を向けて襲いかかってくる幻獣の頭に、呪符を叩きつけた! 地面に思いっきり叩きつけられた幻獣は、頭部が真っ二つに割れ、ピクリともせず即死した。「…え、もう終わり?」
あっけなく終わってしまった妖魔退治に、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず独り言を漏らす。
幻獣は然程珍しくはないが、|讙《カン》に似た幻獣を見られるのは貴重だ。 墨余穏は死んだ讙の様子を眺めながら、ふと忘れ物に気づく。「あっ、|埋投符《まいぼつふ》を忘れちまった……」
この界隈の門派たちは妖魔を退治した後、埋投符という呪符に妖魔をまるごと封じ込め、ありとあらゆる邪気が消えるよう念仏を唱えながら、その呪符を土に埋める「|封《ふう》」という儀式を行う。
「まぁ、通りかがった門派の誰かがやってくれるだろ」
|墨余穏《モーユーウェン》は、人任せな独り言を呟いて、登ってきた時に呪符を入れ込んでおいた木々を伝って、山を降った。
一方で、この邪悪な妖魔の気配を感じ、|墨余穏《モーユーウェン》と入れ違うように|寒仙雪門《かんせんせつもん》の門弟・|一恩《イーエン》と|一優《イーヨウ》が到着した。「な、何だこれは?!」
「山海経にある幻獣だろうか? もう誰かが退治してくれたようだ」
地面が割れるほどの衝撃を加えられている様子から、どのように戦ったのか二人は幻獣の近くを彷徨く。
すると、少し遅れて黄玉の瞳を細めた|師玉寧《シーギョクニン》がやってきた。 |一恩《イーエン》と|一優《イーユイ》は|師玉寧《シーギョクニン》の元に駆け寄り、拱手する。『|師《シー》宗主! お疲れ様です!』
「うん。何か変わった様子は?」
「宗主! こちらを見つけました」
|一恩《イーエン》が、一枚の呪符を差し出す。
|師玉寧《シーギョクニン》は何の表情も変えず、差し出された呪符を手に取った。「どこにあった?」
「幻獣の割れた頭に付いていました」
そう|一優《イーユイ》が話すと、「そうか……」と言って師玉寧は呪符をしばらく眺めた。
「宗主のお知り合いか誰かの呪符ですか? 凄い力をお持ちの方ですね。呪符一枚でこんなに地面が割れるのですから」
|一恩《イーエン》は目を光らせて|師玉寧《シーギョクニン》に問う。
しかし、|師玉寧《シーギョクニン》は何も言わずただ呪符を眺めるだけだった。『宗主……?』
二人は首を傾げ、|師玉寧《シーギョクニン》の返事を待つ。
するとようやく、|師玉寧《シーギョクニン》が口を開いた。「これは、私が預かっておく。お前たちは先に帰りなさい。後の事は私がやっておく」
「よろしいのですか……?」
「構わん」
二人は顔を見合わせ、少し戸惑うも|師玉寧《シーギョクニン》に拱手をして、先に寒仙雪門へと帰っていった。
一人になった|師玉寧《シーギョクニン》は念仏を唱えながら埋投符を取り出し、讙を丸ごと封印したあと、地面に埋めた。 柔らかい風が頬を掠め、長い黒髪が月に照らされ美しく靡く。 |師玉寧《シーギョクニン》は、無数に輝く星空と月を仰ぎながら独り呟いた。「|墨逸《モーイー》……、本当にお前なのか……」
甦ってから三日経った昼下がり、|墨余穏《モーユーウェン》は新しい衣を買いに、|尊丸《ズンワン》と下町へ向かった。 「ここは何も変わってないんだなぁ〜」 「そうだね、ここは相変わらず活気のある人ばかりだよ」 この下町は、古くから商いで賑わう地域で|墨余穏《モーユーウェン》の顔馴染みも多い。|墨余穏《モーユーウェン》は周りからどんな顔をされるか不安だったが、そんな不安は一瞬で吹き飛んだ。 「おい! 嘘だろ! |墨逸《モーイー》じゃないか?! お前、どこに行ってたんだよ!」「はははっ。久しぶり! 魚屋の亭主!」「あら〜、|墨逸《モーイー》じゃない! 相変わらずの美男子ね」「はははっ。甘露の女将さんも、相変わらず美人さんだよ!」「やっぱ、お前が死んだなんて嘘だったんだな! おい! これ持ってくか?」「はははっ。ありがとう! 串屋のおいちゃん! この鳥もくれる?」 他にも、新しい符を書いてくれだの、婿に来て欲しいだの、皆寄ってたかって|墨余穏《モーユーウェン》を囲み出した。 こうして愛嬌のある|墨余穏《モーユーウェン》は、誰かと会う度に次々と声を掛けられ、相変わらずの存在感を醸し出していた。 しばらく歩くと|豪剛《ハオガン》も行きつけだった呉服屋に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》と|尊丸《ズンワン》は中へ入る。 すると、|墨余穏《モーユーウェン》が戻ってきたと噂を聞きつけていた大旦那が、涙を流しながら|墨余穏《モーユーウェン》を思いっきり抱きしめた。「|豪剛《ハオガン》のように、ええ男になったの〜、|墨逸《モーイー》! あんな小さくか弱かったのになぁ。|豪剛《ハオガン》もきっと喜んどるわ〜。ワシも嬉しすぎて、もういつ死んでも構わんな!」「はははっ。だめだめ。俺の衣、大旦那に死ぬまで仕立ててもらわなきゃいけないから!」 そう言葉を交わし、|墨余穏《モーユーウェン》は|豪剛《ハオガン》がいつも着ていた黒色の衣を、数点選定してもらった。 |墨余穏《モーユーウェン》は黒が映える男だ。肌白さがより衣の黒を引き立てているようにも見える。 玉佩をつける紐だけを白にし、無駄を無くして品よくまとめる様は|豪剛《ハオガン》譲りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》が鏡を見ていると、背後から大旦那が話し始める。 「|豪剛《ハオガン》はよく言ってい
ゆっくりと目を開け、何度か瞬きを繰り返すと、何やら見覚えのある木目の天井が見えた。 (ここは……) |墨余穏《モーユーウェン》は、まだ眠気の取れない瞼を何度も閉じ、思考を凝らしながら周りの空気を感じ取る。 線香の香りと、長年染みついた独特の生活臭が入り混じった懐かしい香り。 ここは間違いなく、前世で世話になった|尊仙廟《そんせんびょう》だ。 (でも、俺は……死んだんじゃないのか? どうしてここに居るんだ? 何が起きてる? ) やはり|墨余穏《モーユーウェン》は、今の状況を把握し切れないでいた。 それもそのはず。|墨余穏《モーユーウェン》は以前、邪符教の|鳥鴉盟《ウーヤーモン》・|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、使用した呪符の反動で命を落としていたからだ。 |墨余穏《モーユーウェン》は、自分の手で頬を軽く叩いてみる。 やはり五感は全て正常のようだ。 腕を上げ、手のひらを眺めていると、床を踏み鳴らす音とお皿を揺らす音が同時に近づいてきた。「おや、目が覚めたようだね。具合はどうだい? |墨逸《モーイー》」 |墨余穏《モーユーウェン》はムクっと起き上がり、その優しい声の主を見る。 そこには、木製のお盆を持ちながら、目尻にたっぷりの皺を寄せて微笑む長老が立っていた。 久しぶりの再会に、思わず顔が綻ぶ。「|尊丸《ズンワン》和尚! 久しぶりだな! 元気だったか?」「いや〜、また君に会えるなんて夢のようだよ」「はははっ。俺も夢のようなんだが……、何がどうなっているんだ? 説明してくれないか?」「そうだね。でもまずは食事を摂りなさい」 |尊丸《ズンワン》はそう言いながら、朝食が乗った木製のお盆を|墨余穏《モーユーウェン》の側に置く。それから熱い白茶を二つの茶呑みに注ぎ、|尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》と向かい合うように正座した。「今朝、裏の墓地を清掃していたら何か音がしたんだよ。気になってその音がした方へ向かったら、君が父上の墓の前で倒れていたんだ。君に近づくと息をしているから慌てて弟子たちを呼んで、君をここに連れてきたってわけさ……。何か心当たりはないのかい?」 「……いや、何にも。気づいたらここで寝かせてもらっていただけだ」 甦った理由がさっぱり分か
幾重にもかかる真っ白な山雲が、その名の通りこの華やかな情景に映える険しい|華陰山《かいんざん》を覆う。 人が無闇矢鱈に入山できる山ではないのだが、この日だけは山雲をいとも簡単に切り裂く異国の盗人術師たちが、ここを訪れていた。 「おい! 後ろに続け! 離れるなよ!」 『はい!』 上に登れば登るほど酸素は薄く、気温も低温傾向にある。 しかし、この者たちは鍛錬を積み重ねた強靭たちばかりが集められている為、何の心配もいらないようだ。 一人の男が言う。「|阿可《アーグァ》様! あそこに廟があります!」「よし、見つけたな! そこへ向かうぞ!」 |突厥《とっけつ》の|阿可《アーグァ》たちは目先にある廟へ向かって険しい岩場を進む。 様々な木が生い茂り、視界を遮るように霧が立ち込めている。 進むのも後戻りをするのも困難な場所だが、彼らは行く手を止めようとしない。木枝や葉を踏み鳴らす音だけが響き、皆黙々と登り続けると、突厥たちはようやく山の頂上の岩場に聳え立つ、小さな廟に到着した。「本当にここなんですか?」「あぁ。間違いない。早く扉を壊せ」 |阿可《アーグァ》の命令に従い、数人の下の者たちが、硬く封じられた扉を抉じ開ける。しかし、扉自体は開くものの強力な呪符で護られているせいか、中に踏み込む事ができない。 |阿可《アーグァ》は「チッ」と舌打ちしながら、預かっていた一枚の呪符を胸元から取り出し、扉の中に投げ入れた。 すると、たちまち呪符の効力が消え、ただの物小屋のような空間が広がり始めた。「さすがです! |阿可《アーグァ》様!」 下の者たちから煽てられて気分の良い|阿可《アーグァ》は、颯爽と中に入り、この廟に祀られていた|三神寳《さんしんほう》の一つ・|神漣剣《しんれんけん》を手に取る。「これが|呂熙《リューシー》殿が欲しいと言っていた神剣か……」 ひとしきり眺めた後、|阿可《アーグァ》は|神漣剣《しんれんけん》の隣に置いてあった符術書・|万墨帛書《ばんぼくはくしょ》と、青銅製の鳥の形をした銅鏡・|神翼鏡《しんよくきょう》も手に取って胸元に仕舞った。|阿可《アーグァ》は踵を返そうと足元に目を遣ると、石段に何やら文字が彫られているのに気付いた。 しかし、|阿可《アーグァ》は突厥の人間な為、この国の文字が読めない。「おい! この文字を読める