Home / BL / 天符繚乱 / 第二話 拾得

Share

第二話 拾得

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-09-01 12:19:42

甦ってから三日経った昼下がり、|墨余穏《モーユーウェン》は新しい衣を買いに、|尊丸《ズンワン》と下町へ向かった。

「ここは何も変わってないんだなぁ〜」

「そうだね、ここは相変わらず活気のある人ばかりだよ」

この下町は、古くから商いで賑わう地域で|墨余穏《モーユーウェン》の顔馴染みも多い。|墨余穏《モーユーウェン》は周りからどんな顔をされるか不安だったが、そんな不安は一瞬で吹き飛んだ。

「おい! 嘘だろ! |墨逸《モーイー》じゃないか?! お前、どこに行ってたんだよ!」

「はははっ。久しぶり! 魚屋の亭主!」

「あら〜、|墨逸《モーイー》じゃない! 相変わらずの美男子ね」

「はははっ。甘露の女将さんも、相変わらず美人さんだよ!」

「やっぱ、お前が死んだなんて嘘だったんだな! おい! これ持ってくか?」

「はははっ。ありがとう! 串屋のおいちゃん! この鳥もくれる?」

他にも、新しい符を書いてくれだの、婿に来て欲しいだの、皆寄ってたかって|墨余穏《モーユーウェン》を囲み出した。

こうして愛嬌のある|墨余穏《モーユーウェン》は、誰かと会う度に次々と声を掛けられ、相変わらずの存在感を醸し出していた。

しばらく歩くと|豪剛《ハオガン》も行きつけだった呉服屋に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》と|尊丸《ズンワン》は中へ入る。

すると、|墨余穏《モーユーウェン》が戻ってきたと噂を聞きつけていた大旦那が、涙を流しながら|墨余穏《モーユーウェン》を思いっきり抱きしめた。

「|豪剛《ハオガン》のように、ええ男になったの〜、|墨逸《モーイー》! あんな小さくか弱かったのになぁ。|豪剛《ハオガン》もきっと喜んどるわ〜。ワシも嬉しすぎて、もういつ死んでも構わんな!」

「はははっ。だめだめ。俺の衣、大旦那に死ぬまで仕立ててもらわなきゃいけないから!」

そう言葉を交わし、|墨余穏《モーユーウェン》は|豪剛《ハオガン》がいつも着ていた黒色の衣を、数点選定してもらった。

|墨余穏《モーユーウェン》は黒が映える男だ。肌白さがより衣の黒を引き立てているようにも見える。

玉佩をつける紐だけを白にし、無駄を無くして品よくまとめる様は|豪剛《ハオガン》譲りだ。

|墨余穏《モーユーウェン》が鏡を見ていると、背後から大旦那が話し始める。

「|豪剛《ハオガン》はよく言っていたよなぁ。『できる奴は派手に着飾ったりしない。余計な物は身につけねーんだ』って。墨逸もこれでええんか?」

「うん。これでいいよ」

「なんか刺繍は入れるか? 何でもええぞ。名前や花とかでも」

花と聞いて|墨余穏《モーユーウェン》は、水仙の花を襟の内側に小さく入れて欲しいと頼んだ。大旦那は想い人でもいるのか? と言わんばかりに、目を細めて尋ねる。

「ほぉ。水仙か。何かあるのか?」

「ん? 好きな花だから。ただ、それだけだよ」

好きな花……。

いや、手に取れそうもない花だからこそ、選んだのかもしれない。

|墨余穏《モーユーウェン》はそっと小さく微笑み、出来上がるのを待つことにした。

しばらく待つこと一炷香。

出来上がった衣を持った大旦那が|墨余穏《モーユーウェン》の元へやってくる。

「|墨逸《モーイー》、待たせたな。これでええか?」

「うん、とっても綺麗だ。ありがとう」

手仕事とは思えない程、白糸で縫われた水仙の刺繍はとても美しかった。

それから一通りのやり取りを終え、|墨余穏《モーユーウェン》たちは呉服屋を後にする。

下町から尊仙廟へ戻ったのは、酉の刻だった。

いい買い物をしたとご満悦な|墨余穏《モーユーウェン》は、夕餉を済ませ、部屋で呪符を書き連ねていると、尊仙廟の裏手にある|黄山《こうざん》から何やら大きな妖魔の気配を感じた。

(何だ? この威圧感は……。ちょっと様子を見に行くか)

|墨余穏《モーユーウェン》は書き連ねた呪符を数枚胸元に忍ばせ、|尊丸《ズンワン》のいる居間へ向かう。

|尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》の様子を察知し、心配そうに「行くのかい?」と尋ねた。

「うん。大丈夫。呪符もいっぱい持ったし、ちょうど腕試しをしたかったところだから」

「本当に大丈夫なのかい? 体力もまだそんな……」

「はははっ。大丈夫だって。必ず帰ってくるから」

|墨余穏《モーユーウェン》は、何も心配いらないといった様子で、今日新調した衣の襟元を正す。

「じゃ!」と|尊丸《ズンワン》に言い残し、|墨余穏《モーユーウェン》は意気揚々と黄山へ向かった。

|尊丸《ズンワン》が言っていた通り、華陰山の守護が壊されてから、以前とは違う異様な霊気が麓から漂っていた。

さすがの|墨余穏《モーユーウェン》も、違和感を抱けずにはいられない。

|墨余穏《モーユーウェン》は胸元から呪符を取り出し、目印になる木に触れていく。次第に呪符が木の中に入り、来た道を示してくれるようになる。草木を駆き分け、超人の走りをしながら中へと進むと、ここは山の中腹だろうか。

異様な妖気が漂う少し開けた場所が見えてきた。

|墨余穏《モーユーウェン》は木の上に飛び移り、呼吸を整えながら全体を見渡す。

すると、背後から得体の知れない妖魔が|墨余穏《モーユーウェン》に向かって飛びかかってくるではないか!

「おいおい、脅かすなよ〜」

|墨余穏《モーユーウェン》は、余裕綽々で妖魔の攻撃を躱わす。

月明かりに照らされた妖魔をよく見ると、一つ目で尻尾が三つに分かれている、|讙《カン》に似た幻獣だった。

眼光を鋭くして、鋭利な牙をこちらに向けている。

修仙界の道士であっても、鍛錬を積んでいる特殊な道士で無ければ、この類いの妖魔は殺せない。

しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は恐怖心など微塵も感じることなく呪符を胸元から取り出し、尖った木の枝に指滑らせて、滲み出る鮮血を呪符に垂らした。

すると、みるみるうちに白色の呪符が黄色へと変わり、文字も赤へと変貌する。

墨余穏は死ぬ前と同じ霊力があると確信し、この鋭利な牙を向けて襲いかかってくる幻獣の頭に、呪符を叩きつけた!

地面に思いっきり叩きつけられた幻獣は、頭部が真っ二つに割れ、ピクリともせず即死した。

「…え、もう終わり?」

あっけなく終わってしまった妖魔退治に、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず独り言を漏らす。

幻獣は然程珍しくはないが、|讙《カン》に似た幻獣を見られるのは貴重だ。

墨余穏は死んだ讙の様子を眺めながら、ふと忘れ物に気づく。

「あっ、|埋投符《まいぼつふ》を忘れちまった……」

この界隈の門派たちは妖魔を退治した後、埋投符という呪符に妖魔をまるごと封じ込め、ありとあらゆる邪気が消えるよう念仏を唱えながら、その呪符を土に埋める「|封《ふう》」という儀式を行う。

「まぁ、通りかがった門派の誰かがやってくれるだろ」

|墨余穏《モーユーウェン》は、人任せな独り言を呟いて、登ってきた時に呪符を入れ込んでおいた木々を伝って、山を降った。

一方で、この邪悪な妖魔の気配を感じ、|墨余穏《モーユーウェン》と入れ違うように|寒仙雪門《かんせんせつもん》の門弟・|一恩《イーエン》と|一優《イーヨウ》が到着した。

「な、何だこれは?!」

「山海経にある幻獣だろうか? もう誰かが退治してくれたようだ」

地面が割れるほどの衝撃を加えられている様子から、どのように戦ったのか二人は幻獣の近くを彷徨く。

すると、少し遅れて黄玉の瞳を細めた|師玉寧《シーギョクニン》がやってきた。

|一恩《イーエン》と|一優《イーユイ》は|師玉寧《シーギョクニン》の元に駆け寄り、拱手する。

『|師《シー》門主! お疲れ様です!』

「うん。何か変わった様子は?」

「門主! こちらを見つけました」

|一恩《イーエン》が、一枚の呪符を差し出す。

|師玉寧《シーギョクニン》は何の表情も変えず、差し出された呪符を手に取った。

「どこにあった?」

「幻獣の割れた頭に付いていました」

そう|一優《イーユイ》が話すと、「そうか……」と言って師玉寧は呪符をしばらく眺めた。

「門主のお知り合いか誰かの呪符ですか? 凄い力をお持ちの方ですね。呪符一枚でこんなに地面が割れるのですから」

|一恩《イーエン》は目を光らせて|師玉寧《シーギョクニン》に問う。

しかし、|師玉寧《シーギョクニン》は何も言わずただ呪符を眺めるだけだった。

『門主……?』

二人は首を傾げ、|師玉寧《シーギョクニン》の返事を待つ。

するとようやく、|師玉寧《シーギョクニン》が口を開いた。

「これは、私が預かっておく。お前たちは先に帰りなさい。後の事は私がやっておく」

「よろしいのですか……?」

「構わん」

二人は顔を見合わせ、少し戸惑うも|師玉寧《シーギョクニン》に拱手をして、先に寒仙雪門へと帰っていった。

一人になった|師玉寧《シーギョクニン》は念仏を唱えながら埋投符を取り出し、讙を丸ごと封印したあと、地面に埋めた。

柔らかい風が頬を掠め、長い黒髪が月に照らされ美しく靡く。

|師玉寧《シーギョクニン》は、無数に輝く星空と月を仰ぎながら独り呟いた。

「|墨逸《モーイー》……、本当にお前なのか……」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 天符繚乱   第二十一話 緑琉門

    「シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「人様の家で何をしている」  |師玉寧《シーギョクニン》の目は据わり、幾重にも連なる氷瀑の先が今にも頭上に落ちてきそうな刺々しい雰囲気を纏っている。|墨余穏《モーユーウェン》は額に冷や汗を滲ませ、口元を引き結ぶ。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は続けた。 「何故、勝手に出て行った?」 「そ、それは……」「何だ?」「俺がいると迷惑かなっと思って……」 視線を合わすことに耐えかねた|墨余穏《モーユーウェン》は、俯きながら|師玉寧《シーギョクニン》から向けられる冷たい視線を逸らした。 師玉寧は深く溜め息を吐き、墨余穏に言う。「私がいつ迷惑だと言った?」「……だって、俺がずっと側にいたらさ|賢寧《シェンニン》兄の好きな人が嫌がるでしょ。だから、俺とは居ない方が……」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮ったと思ったら、墨余穏の胸ぐらを勢いよく掴んで逞しく引き締まった己の身体に引き寄せた!「私に二度と心配をかけさせるな!! 分かったか!!」 深雪のような白い肌が血に染まるが如く、師玉寧は血相を変えて怒鳴りつけた。感情的な|師玉寧《シーギョクニン》を初めて見た|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず顔を引き攣らせ怖気付く。 |師玉寧《シーギョクニン》は更に声を荒げた。「お前は、黙って私の横に居ればいい!!」「で、でも、それじゃ……」「でも何だ?! まだ何か文句があるのか?! これ以上無駄口を叩くならば、霊符に封印するぞ!!」「……」 |師玉寧《シーギョクニン》の黄玉の瞳が激しく揺れている。 その瞳の奥から、猛獣の如く獲物を独占したいという欲望が溢れていた。墨余穏はどうする事もできず口を閉ざす。 師玉寧からようやく胸ぐらを解放され、墨余穏はよろけた身体を立て直し、そっと首元を整えた。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向け、声だけを墨余穏に向ける。「|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ急ぐぞ。|風立《フォンリー》が危ない」「……何があったの?」 |墨余穏《モーユーウェン》は怪訝そうに訊ねると、|師玉寧《シーギョクニン》は小さく溜め息を漏らし、言葉を繋げた。「突厥に捕まったと神通符が届いた。その中にはお前を襲った|呂熙《リュ

  • 天符繚乱   第二十話 栄穂村

     |墨余穏《モーユーウェン》の心の水面は凪の如く落ち着き、正気を取り戻すと、|趙沁《ジャオチン》の言っていた|栄穂村《ろんすいむら》に到着した。 古い家屋が並び、奥にはだだっ広い田畑が広がっている。 その横には馬や牛、山羊などの動物たち飼育されており、酪農の独特な香りが漂っていた。 「ここが僕たちの住む村だよ。僕たちは皆農家なんだ。五十人も満たない小さな村だけど、皆仲良くやっているよ」「へぇ。そうなのか。ちなみに、|趙沁《ジャオチン》は何を作ってるんだ?」「僕は、山羊を飼育している。ここの村の山羊肉やお乳はとっても美味しいだ。良かったら食べていかない? 後でご馳走するよ」 山羊肉が好物な|墨余穏《モーユーウェン》はそれを聞いて、口の中を涎で満たした。 墨余穏は溢れてくる生唾を飲み込みながら、案内された家まで趙沁を運ぶ。すると、趙沁の背負われた姿に気づいた村の長老が、何事かと顔を曇らせて駆け寄って来る。「|趙沁《ジャオチン》! 一体どうしたんだ! 何があったんだい?!」「あ、|長豊《チャンフォン》さん。いやぁ〜、山道を下ろうとしたら足を滑らせてしまって。ちょうど近くにいたこちらの|墨逸《モーイー》仙君に助けてもらったんだ」 長老の|長豊《チャンフォン》はそれを聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》に小さく頭を下げた。続けて、「あまり無理をするな」と|趙沁《ジャオチン》に言うと、長豊は墨余穏の背中から降りようとする趙沁の背中を支え、椅子に座らせた。趙沁の様子に安堵したのか、長豊がゆっくりと顔を綻ばせる。「仙君。うちの村の者を助けてくださり、ありがとうございました。礼は尽くしますので、今しばらくこちらでお待ちください」 「あ、|長豊《チャンフォン》さん、僕の所にある山羊の肉もお願いできる?」「あぁ、分かったよ! 茶も持ってくるから、ゆっくりしていな」「礼には及ばない」と|墨余穏《モーユーウェン》は言うも、長豊は全く聞き耳を持たず、外へ出て行ってしまった。 |趙沁《ジャオチン》は鼻を掻きながら墨余穏に言う。「気にせず甘えていいから。僕も|墨逸《モーイー》ともう少し話がしたいから、ここにいて」「なんか、申し訳ないなぁ。ありがとう」 |墨余穏《モーユーウェン》は控えめな笑みを見せた。 すると、|趙沁《ジャオチン》がおぼつかない足取りで、薬

  • 天符繚乱   第十九話 鳥鴉盟

    物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑

  • 天符繚乱   第十八話 金杭州

     |墨余穏《モーユーウェン》は胸の痛みを隠しながら、「そっか」と無理矢理笑みを作った。気まずくなるのが怖くて、墨余穏は更に言葉を続ける。「一緒に過ごせるといいね、その人と。もし、その人と|賢寧《シェンニン》兄が結婚したら、俺はちゃんと玉庵から出て行くから安心して。あ、もう出てった方がいいかな? |金王《ジンワン》先生に診てもらったら、そのまま俺は違う所へ行くよ。俺は|賢寧《シェンニン》兄が居なくても、どこでも生きていける」  鼻の奥がツンとした。 本心じゃないことを口走り、目縁がほんの少し濡れ始める。 墨余穏は師玉寧に見られないように、後ろを振り返って黒い袖で目縁を拭った。 すると、師玉寧はずっと瞳を揺らしながらこちらを見ている。「ん? どうした? |賢寧《シェンニン》兄」「……お前にも、好いている者がいるのか?」 言おうかどうか迷ったが、|墨余穏《モーユーウェン》はそれとなく答えた。「俺? あははははっ。そうだね、いるよ。死ぬ前からずっと思いを寄せてる人が。でも、その人は高嶺の花みたいでさ。ずっと触れられそうで触れられないんだよね。その人にも大切な人がいるみたいだし……」「そうなのか……」 これまで感じていた空気が、夕陽ごと一気に沈む。 女夜叉のせいで足止めを食らってしまった為、夜分に押し掛けるのは良くないと判断した二人は、山を登らず近くにあった簡易的な宿に身を寄せた。それぞれの部屋から大きな溜め息と鼻を啜る音が聞こえていたのは、誰も知らない。 重苦しい夜長がようやく明け、澄んだ朝がやってきた。 何事もなかったかのように二人はいつも通りの雰囲気で山を登り、無事|金王《ジンワン》医官の所へ到着した。 山奥に聳え立つ一軒の屋敷の外は、ありとあらゆる薬草で溢れかえっており、独特な匂いが漂っていた。簡易的な木の門の前で二人の姿を捉えた銀髪の長老・金王は、持っていた桶を真ん中で持って小さくお辞儀をする。|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》も丁寧に拱手し、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の紹介でここを訪ねたと話した。「はい。伺っておりますよ。天台山の若き道士が来られると。あなたが、あの|豪剛《ハオガン》の……。どうぞお二人ともお入りください」『お邪魔します』 同時に発した言葉が重なり、二人は互いを見遣る。 墨余穏は

  • 天符繚乱   第十七話 金華の猫

     |黄林《フゥァンリン》の後についていくと、|金龍台門《きんりゅうだいもん》の正門付近で、松明を持った人集りが見えてきた。 「何が起きたんだ?!」  眉間に皺を寄せながら|墨余穏《モーユーウェン》が黄林に尋ねると、黄林が口を開く前に|金冠明《ジングァンミン》が先に口火を切った。 「ここ最近、|金華《きんか》の猫という人間に化けた妖獣がこの周辺に出没し始め、男なら男根と金品を奪い、女なら下腹部の人肉……特に子を孕んでいる女子は母胎ごと取られるという悲惨な事件が頻発している」 「はぁ……」  |墨余穏《モーユーウェン》は顔半分を歪ませながら、その悲惨な現場を目撃する。丸裸の男が横たわり、下半身から悍ましい量の鮮血を漏らしている。まるで、血溜まりの上で身体が浮いているかのようだ。墨余穏は思わず、大事な部分を隠すかのように、身体をくの字にして縮こまった。「|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていた、根こそぎ取られるというのは、こういう意味なのか……」 顔を歪ませながら|墨余穏《モーユーウェン》がそう言うと、背後にいた|師玉寧《シーギョクニン》が死体を見ながら呟いた。「しかし、凄い血の量だ。余程、男に強い怨みがあるのだろうか?」「いや、まだ男ならこの程度で済みますが、孕んだ女子の死体はもっと悲惨ですよ……。顔も抉られ、原型を留めません。あれは言葉を失うぐらい、目も当てられませんよ……」 |金冠明《ジングァンミン》は俯きながら、そういう死体を幾つか見てきたと言う。俯く金冠明を見たあと、|墨余穏《モーユーウェン》は目線を死体に向けた。この死体と金華の猫との間に何があったのかは分からないが、少なからず金華の猫は人間の心を得てして、男女問わず人間に強い怨みを抱いていることは間違いない。金と男女の縺れは人の人生を狂わすと、|豪剛《ハオガン》が生前言っていたのを思い出し、墨余穏は小さく息を吐いた。  墨余穏はそっと、一途に想う恋の相手に視線を向ける。 その相手もまた、何かを思うように死体を見つめていた。「|水仙玉君《スイセンギョククン》。何か気になることでもあるのですか?」 |金冠明《ジングァンミン》が|師玉寧《シーギョクニン》に訊ねると、師玉寧は死体を見つめたまま小さな声で呟いた。「いや、昔を思い出しただけだ……」 聞いていた|墨余穏《

  • 天符繚乱   第十六話 金龍台門

    (何で先に行っちまったんだろ、|賢寧《シェンニン》兄は……。俺、何かしたのか? ) |墨余穏《モーユーウェン》は段々と親鳥に置いていかれた雛鳥のように寂しさを募らせ、怒りよりも疑問が膨れ上がってきた。|師玉寧《シーギョクニン》の行動が全く理解できず、|墨余穏《モーユーウェン》は自分に何か非があったのか、何か怒らせるようなことをしたのか、考えを巡らせる。 (行きに俺が冷たくあしらったからか? もしかして昨日の夜、飲めなかった一葉茶を庭先にこっそり捨てたのを知っているとか? いや、そんな単純じゃないか。ん〜……、あ、そうか! |香翠天尊《シィアンツイてんずん》が俺に触れたから、それで機嫌が悪くなったのか! うん、それしか考えられない。ったく、図体はデカいくせに、そういうところは小さいんだよなぁ〜) 勝手な理由を見つけると、|墨余穏《モーユーウェン》は妙に自分で納得してしまい、それ以上追求するのをやめた。 |師玉寧《シーギョクニン》のことを考えていたら、あっという間に金龍台門へ繋がる賑やかな下町に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》は久しぶりに絢爛華麗な雰囲気を肌で感じた。 金龍台門のお膝元となるこの下町は、昔から商いの町として知られ、出店で賑わっている。華やかさゆえに妓楼も多く存在し、客を捕まえやすいのか、昼夜関係なく酒楼の前で首元をはだけさせた若い女たちが立っている。|墨余穏《モーユーウェン》の目の前にも、待ち構えていたかのように一人の仙姿玉質な妓女がふらふらとやって来た。 「そこのお兄さん、お一人? もし良かったら私と一緒に遊ばない?」 「あははっ、美人さんからのお誘いを断るのは忍びないけどごめん。今から金龍台門へ行かなきゃならないんだ。それに、先に行っちまった美人を今度こそ怒らすとまずいから、もう行かないと」 「そっかぁ〜、お兄さん彼女いるんだぁ〜、残念! でも、ちょっとだけ。だめ?」 妓女は墨余穏の腕を掴み、大きな果実のような胸を擦り付けながら、上目遣いで引き止める。 「ごめんよ、お姉さん。他を当たってくれないか」 |墨余穏《モーユーウェン》は苦笑いをしながらそっと腕を引き抜き、駆け足でその場を後にした。 (危ない危ない。こんな所で道草食ってる場合じゃないんだ。早く|金冠明《ジングァンミン》のところへ行かないと、待た

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status